天龍木材110年の原点

社有林のはじまり

当社に社有林ができる前、この地域では切り出した木材を材木商が買取り、東京等の大都市へ持っていき販売するのが主流でした。しかし、木の値打ちが上がるにつれ、材木商達が力をつけていき、自分たちで山を買取り、森林の管理から伐採、販売まで担うようになりました。天龍木材の創業に貢献した金原明善翁もその一人でした。ただ彼は木材の販売を単なる商売と考えず、社会貢献、産業創出とも捉え活動し、特に天竜川の氾濫を防ぐための治山事業、環境保全に取り組み、地域に貢献していったのが社有林の原型です。

当社創業の恩人 金原明善
昭和初期 多くの山林人夫が川を使い木材を流している様子
川狩りの最盛期には
100人以上の山林人夫や筏師で賑わっていました。

運搬について

現在も運搬は骨がいる仕事です。木材市場が盛んであった大正から昭和初期も例外ではありません。その当時、木材を運ぶ方法として、主に川の流れを利用した川狩りと陸路で木馬を造り人力で運搬する2種類の方法がありました。

昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子
昭和7年 水窪川にて流材をせきとめている様子
昭和13年 川狩りのヤガラ(堰止)を組んでいる様子
昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子
木馬とはそりのようなもので、売り物にならない盤木を下方に並べクイをうち固定したものを土台とし、その上に木材を載せ運びます。木馬の大きさは7尺又は7尺5寸(現在の2m10cmから2m86cmくらい)ほどで、1m位の木馬道を作り押して運んでいました。
昭和13年 川狩りで川をせきとめている様子
木を切り出し、流木や自然石を利用して写真のようなヤガラを組みます。ヤガラに落葉、小枝、ゴミなどが溜まることで自然と川がせき止められます。川をせき止めた後は、木材を貯め1本ずつ流し天竜川の途中で受け取り筏にして運んでいました。

マーク

川狩り、木馬のどちらの運搬方法でも、天龍木材の木材にはすべて の刻印が押されているか、または幹の部分に「テ」と彫り込みがされていました。理由は大きく分けて2つあり、1つは川下や集積所に集まった大量の木材の中から他社と自社の木材を区別するため、もう1つは伐採する地域によって異なる品質の木材を産地別に分ける目印として利用していました。その方法は水窪、犬居、気多、二俣、浦川など天竜川流域の生産地ごとに印の大きさを変えることで産地を見分けていました。天龍木材では現在もその流れをくみ、社有林(地)と他を区別するため幹に マークを使用しています。

当時使われていた マーク(刻印)
切判…幹を切っ先でひっかき、「テ」と彫刻するのに用いた道具
現在も使われている マーク(手描き)

そしてこれから~

金原明善翁の尽力から今日まで110年に渡り受け継がれている当社の社有林。当初1ヘクタールあたり4500本植えられた苗木はその生育とともに適宜間伐をおこなってきました。10年目で間伐された木材は足場材板に、30年目は柱、それ以降は板材など、間伐された木材はそれぞれの材に適した製品に加工され無駄なく使われていました。ただ残念ながら現在ではコストの問題などを理由に伐採しても使用されることはなくそのまま放置されている状況です。しかしながら当社では金原明善翁の意思を受け継ぎ手入れを怠ることなく、最終的には木材にとって最適な環境といわれている1ヘクタールあたり500本まで管理していくのを目標としています。

山林課長 山道正一

未来への希望

明治入社の曽祖父、大正の祖父、昭和の父、そして昭和から平成にかけての自分。4代に渡り長い歳月をかけ社有林の手入れをおこなってきました。代々手入れをしてきた社有林は当社の財産です。常に良好な状況を保っている社有林は環境保全に貢献しているだけでなく、そこでとれる木材は高付加価値を生み出してくれます。良い木材は一朝一夕で育つものではありません。長い年月を要します。自分の代で日の目を見ることはなくとも、木々の成長過程を楽しみ、将来への夢や希望をもって日々取り組んでいます。将来的には国産良材が見直される時が来ると信じ、木材を売る側、買う側、使う側の三方がお互いに幸せである「三方よし」の考えのもと、大切に育てられてきた社有林を守り次世代へつなげていく覚悟です。
(山林課 4代目 山道正一 談)